210628 鈴木健二 / 『気くばりのすすめ』 読書グラフィ 今日読んだ本
読書グラフィ 今日読んだ本
★鈴木健二 / 『気くばりのすすめ』
●人間関係とは、その人の「全人格の他人への反映」なのである。
いわばその人自身を写した鏡であるといってよい。
そこで肝心なのは、自分の長所、短所を見きわめ、
無理のない自然な振舞いの中から人間関係をつくっていくということである。
おとなしい性格の人が、
無視して広い人間関係をつくろうとしても不可能である。
むろん場合によっては一種の演出が必要になることもあるが、
根底にあるのは人間を理解しようとする心である。
●先用後利
「お客さま、どうぞ先にお使いになってください。
もしお気に召しましたら、
なにがしかのお代を置いていってくだされば結構でございます。」
という考え方。
私はけっして悪い品物は売っておりませんという誇りがその裏側にあった。
●西洋の諺(ことわざ)
「英雄の妻は、自分の夫が英雄であることを知らない」
英雄といっても歴史を動かすような仕事をする一方で
凡人と何ら変わらない私生活もある。
そしてこの私生活で細かい心づかいが示せないようでは
とても大物にはなれないのである。
●論語「改むるに憚る(はばかる)ことなかれ」
失敗したあとの処置をうまくやるかどうかに、
人間のねうちがかかっているのである。
●若い人によくするアドバイス
「消極的に成功するよりも、積極的に失敗してみよ!」
●ヨーロッパの格言
「だめだと思ったら、一番最初からやり直せ。
それ以外のことはすべて無駄なことだ。」
大切なことは何度も最初からやり直してみることなのである。
●他人の目と自分の感覚は別なのである。
しかし他人にはどう映ろうと、
自分が納得するように生きていく以外に道はない。
大切なのは、まず自分自身がどう生きるかなのである。
まちがいや失敗を恐れる心は、
とかく仕事をする前から他人の評価を気にすることに発している。
新しい試みや独創的な仕事に取り組むときには、
いつも可能性として潜んでいる失敗をおそれてはならない。
何もしなければまちがいも失敗も起こらない。
しかし、人生でたいしたまちがいも失敗もしないような人間は、
結局のところ何事も成し得ないのである。
人間が過去を思い起こすとき、
記憶も鮮やかで、しかもなつかしく感じられるのは、
失敗談や苦労話のほうが圧倒的に多い。
自分の人生に彩りをそえるためにも失敗は不可欠という逆説も成り立つ。
とかくサラリーマンの生活というものは、堅実・安定型へと向かう。
いまサラリーマンにとおって必要なのは、
自分はこう考えるという「判断」と近い将来を見通す「洞察」、
そして失敗を恐れない「勇気」である。
●北条氏康(うじやす)
あるとき長男の氏政と食事をしていて、
氏政が飯に汁を後からもう一杯かけたのである。
これをみていた氏康は考えた。
自分がどのくらいの量を食べるかはあらかじめわかるはずだ。
途中でもう一杯汁をかけるというのは、
先の見通しの利かない人間ではなかろうか・・・。
この氏康の心配は後になって不幸にも適中する。
□デビッド・バーガミニ『数の世界』
●民主主義というのは、生きる目的を自分でみつける社会である。
●聖書「聞くことを早くせよ、話すことを遅くせよ」
●人が二人、向き合って話をしていたとする。
このとき室内なら相手との目と目の距離は
一メートルから二メートル半くらいである。
この場合、相手のどこをみていたらいいかというと、
相手の両肩の外側それぞれ十センチのところに引いたタテの線と、
頭の上五センチのところに引いたヨコの線、
そして胸に引いたヨコの線のこの四角の中、
ちょうど、テレビのブラウン管の枠の中を見ている範囲、
そして、後ろは相手の背中までの距離。
この中にあなたの視線がある限り、相手には失礼ではない。
●話をしているときも、相手をみつめる必要はなく、
目と目の間をレンズの中心とすると、
だいたい口から頭の上、そして顔の両側までの範囲をみていれば、
相手は自分の顔をよくみていてくれるな、という感じを持つのである。
しかし、これも柔らかな微笑をたたえるなどの
やさしい表情でみることが必要である。
●日本には声の大きい者が勝つという悪い諺があるが、
本当は、声の大きい者は勝たないのである。
大きい声からは何も生まれない。
西欧には「腋(わき)の下で話せ」という言葉がある。
大切な商談などで、どうしても相手にウンといわせたいようなときには、
相手と向かい合って座ってはならないのである。
相手の横に座るのである。
相手の横に座ってなるべく体を寄せて腋の下で話をするつもりで話す。
そうすれば自然に親密の度を増して声も小さくなる。
これでささやき合える間柄に少しでも近くなるのである。
●西洋の諺
「結婚前は男がしゃべって女が聞く。
結婚すると、今度は女がしゃべって男が聞く。
そして五年もたつと、両方が大きな声でけんかして、隣の人が聞いている」
●話は長ければ中身が濃いというものではない。
大切なことは要領よくまとまっていることである。
一つの目安を示すと、
人間の話というものは四十五秒以内にまとまったものが
一番よくわかるのである。
長くて一分半、
それを過ぎると、聞いている人が「あ、長いな」と感じはじめる。
これが二分十秒を過ぎると、
話している人も聞いている人もよくわからなくなってくるのだ。
●より先に進むために絶対に必要な三人の友人
(1)勇気
何かへ挑戦する気概(きがい)であり、行動力の源泉である。
勇気がなければ何も新しいことはできない。
新しいことにはかならず不安、心配がつきまとうからだ。
私のいう勇気とは
むやみやたらに張り切って走り回るような蛮勇のことではない。
もっと地味だが、芯のある勇気である。
(2)判断
自分はどう考えるかということである。
私たちの日常生活は仕事も含めていわば判断の連続である。
たとえそれを表に出すかどうかは別にして、
つねに自分の判断を持たなくてはならない。
(3)洞察
先の見通しということだ。
先といっても、十年先、五年先のことでなくてよい。
せいぜい二年先の会社、家庭、自分の仕事について
自分の心に思い描いておくことも大切だ。
●ヒンズー語「ナマステ」
”あなたを信じます”という意味で、
仏教の”南無阿弥陀仏”の”南無”の語源に当たる言葉である。
●実のところ”どうも”という言葉は、語源すらはっきりしないのである。
民俗学の柳田国男さんは、『毎日の言葉』という著書の中で、
「とにもかくにも」ではないかとおっしゃっている。
とにかくよくわからないのだ。意味不明あいまいな言葉なのである。
こんな氏素性のわからない言葉をなぜ使うのか。
便利だからということなのだろうが、一歩突っ込んでみると、
いまの日本人が、ふだんからそれぞれの場面で、
しっかりした言葉づかいや心構えができていないことの現れと解釈できる。
●むずかしくいうとキリがないが、
私は仏教のいちばん基本にある考え方は、
人間の頭の働きである知恵と、心のやさしさである慈悲、
この二つを寄せ合って生きよ、というところにあると思っている。
●私の家にも神棚がある。
我が家の神棚は間口が三尺六寸五分(約1m10cm)に切ってある。
この寸法は一年三百六十五日の安泰を祈ることからきたのである。
寸法にもちゃんと意味がある。
●美しいおじぎとは、ていねいに下げた頭を、
できるだけ”ゆっくり上げること”なのである。
●大切なことは、自分たちの身近な日常生活の中から
つねに何かを発見する姿勢を持ち続けることである。
この姿勢があれば、そこから疑問や好奇心が生まれ、
それが新しい発想や創造・工夫につながる。
●こどもはそんなに甘くない。
こどもは、母親がいろいろ口やかましく自分にいうわりには、
朝起きてもお父さんに「おはよう」をいわないし、
人から物をもらうとすぐに値ぶみする、
何かにつけて悪口をいうなど、ちゃんと見抜いている。
それを知っているから、母親のいうことなんかけっして守らない。
かえってふだん母親がしているように振舞うようになるのである。
●しつけも身体で育てなければ身につかない。
そして身体を育てる唯一の方法は、
育てる立場にある者がそれを実行することなのである。
●人間にとってもっとも大切なのは、毎日を一生懸命に生きることである。
●ヨーロッパの知恵「3K(ドライカー)」
(1)Kochen(コッヘン) クッキング。料理のこと。
(2)Kind(キント) チャイルド。こども=育児、子育てのこと。
(3)Kirche(キルヒェ) チャーチ。教会。人に奉仕する心。
●民主主義の基本原則は、「要求する前に努力せよ」ということである。
●聖書「一粒の麦、もし死なずば・・・」
土の上に落ちた一粒の麦がいつまでも自分が麦でありたいと思ったら、
次の芽は出ないし、次の麦はけっして実らない。
土の上に落ちた一粒の麦が、
自ら麦であることをやめて死んでくれるから、
次の芽が出て、次の実がなるのである。
●凛々しさ(りりしさ)とは、いっさいの雑事雑念を取り払って、
清々しい(すがすがしい)感じで自分の道を一筋に歩いていく姿である。
●私がこどもに対し、小さいときからいってきかせていたのは、
「毎日を一生懸命に暮らしなさい。
牢屋にだけは行くな。
そして人間の魂がいかに美しいかを知るために一生に一度、
死ぬほどの恋愛をしなさい」
ということだけであった。
また私はこどもたちにこうも宣言していた。
「高等学校が終わるまでは親として面倒をみるが、
それからあとは自分で選べ。
大学へ入った場合は学費だけは出す。
女の子は、結婚しても亭主が死んでしまう場合もあるから、
つなぎ資金として、結婚した時点で三百万円貯金しておいてやる」
●母親の存在感は毎日の細かい心づかいを通して
赤ん坊のうちから身体にしみ込んでいる。
父親が悲壮なのは、その存在が容易に理解されないからである。
しかし、「いつかこどもが・・・」と、
未来を信じて黙々と働き続けるしかないのである。
●心というのは、
話を聞いたり、本を読んだりしているときは、
そうだそのとおりだと思っても、
いざ具体的にどこから始めるかとなると、
手段が全然みつからないものである。
それは教えられて頭で覚える事柄ではなくて、
人から人へと伝えられ、
育てられていくべき性質のものだからである。